ハロー 3月最終日、皆さんサバイバルしてる?おもろいゴリラです!
当然 プラタノ(バナナのことやけど)主食のゴリラ様、冬でも食べてるよ。
でもな 南の国の産物だから身体を冷やすらしいのじゃ。ちと悩む。うーん。
ところで ついでに
この PLATANO(最初のAにアセント、あ、英語でいうところのアクセントの記号がつくのだけど)はスペインではバナナのことを意味し、中南米では英語同様bananaと呼べばいい、 一方 下記のスペイン語研究科様のブログではスペインでも産地により 呼称を使い分けてるみたいな、よう分からん。誰か本件まとめてくれい!どちらにしろ 台湾産のば・な・な が ハオチーやな!
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スペイン人はバナナとプラタノをどう区別しているか?
今日いつものスーパーに行った時に、思い出しました。
その昔、日本でスペイン語を少々かじっていた時にバナナのことはプラタノと教わっていました。
それで、「スペイン語ではバナナのことはプラタノという」と覚えていたものの、実際にスペインに
来て果物屋さんやスーパーに行くと、バナナとプラタノの両方が存在していました。
そこで初めて知ったのは、スペイン国産(カナリア諸島が産地)のものがプラタノで、南米やアフリカ、
東南アジア産のものをバナナと区別していること。誰もが「プラタノの方がおいしい」と言い、値段も高めです。
初めてスペインを訪れる前に、メキシコやベネズエラに何度か足を運んでいましたが、
向こうでは一括してプラタノだったような気がするのですが・・・、うーん、定かではありません。
皆さんは、スペインでのこのバナナとプラタノの違いをご存知でしたか(^^)?
スペイン/バレンシア特派員ブログ 田川 敬子様の情報から
https://tokuhain.arukikata.co.jp/valencia/2016/02/post_142.html
さて、そんなバナナの話でなくて
本日も ○○ナ(バナナでないよ)のせいで それなりに暇でネットサーフィンしてたら YAHOOニュースで下記が引っ掛かった
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トップニュース
お、ありや、これはこれは、きたねー、この懐かしいゴールシーン。1986年の6月のあの夏の日(6月だったよな)、暑い夏だった。34年前のあの日。
懐かしいって、これ おらは目撃していたから。メキシコ中西部のハリスコ州にある歴史的な街、グアダラハラ、西部の真珠と言われるメキシコ第2の都市でもある。
あの年、春から密かに隠密段取りしていた社会人4年目を終えようとしていたおもろいゴリラは 4月には日本を脱出し、米国西海岸 LAの郊外のパサデナで世界最大の祭典 メキシコワールドカップの開幕5月31日を待ったのだ。地震工学の専門家であるCOUSINの一家宅で合宿。そして開幕の1か月前には現地メキシコシティー入り。普通の日本人では味わえない(と勝手に思い込んでる】濃密な多忙な、フットボールを味わい尽くすメキシコ滞在を開始したのだ。ワールドカップそのものはもちろん凄かった、おもろかった。あったり前田のクラッカー(すまん、誰も笑ってはいけない)。チケットも おらの記憶が正しければ30試合分は持って乗り込んでいたのだから。でも凄かったのは開幕までの開会式までの1か月である・・楽しかった~・・その話はまたの機会があればね。
さて、なゼこのタイミングでYAHOOニュースに86年のワールドカップの記事が?他にネタが無くなったので たまたま??
それは下記事情でした
スポーツ雑誌でステイタスの高い(と思うけど)、ナンバーの記者様のチョイスでした
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メキシコシティから夜行バスに乗り、早朝、グアダラハラに着いた。もう34年ほども前となる1986年6月21日。ワールドカップ(W杯)メキシコ大会準々決勝のブラジル対フランスを観戦するためだ。
「一体、どんな試合になるんだろう」と想像して、なかなか寝付けなかった。
メッシはクラブレベルではすでに、マラドーナ以上の結果を残している。にもかかわらず、多くのアルゼンチン国民にとっては、マラドーナは絶対の存在であり、メッシには物足りなさを感じている。それはなぜなのか? その理由は、マラドーナがアルゼンチンをワールドカップ優勝に導いたからだ。
マラドーナが伝説となった1986年のアルゼンチン代表を紹介する。
86年のメキシコ大会でアルゼンチンを2度目の世界王者に導いたマラドーナ。数々の伝説のプレーを披露し、頂点にのぼりつめた
文◎佐藤 景 写真◎Getty Images
14点中13点に関与した圧巻のプレー
チーム内における影響力を比べれば、ペレも、ヨハン・クライフも、遠く及ばない。86年大会のディエゴ・マラドーナは、まさに一人で勝負の行方を決定付けてしまう、そんな存在だった。
初戦から決勝までの7試合でこの天才プレーヤーは5得点5アシストの離れ業を成し遂げている。これはチームが挙げた14得点のうち、半数以上に関与した計算だ。
スコアシートには載らないものの、ウルグアイ戦の1点目と西ドイツとの決勝における2点目も、攻撃の起点になった。決勝の1点目(ブルチャガ→ブラウン)を生んだFKにしても、そのパスが相手の反則を誘ったからこそ生まれたもの。結局、無関係に生まれたゴールは、ブルガリア戦の1点だけだった。
指揮官カルロス・ビラルドによる「優勝を実現するための最善策」は、一人のフットボーラーの能力を最大限に生かすことにあった。その結果として、86年大会は「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」になったのである。
10人のしもべを集めたスターシステム
83年秋の監督就任以来、ビラルドのチームは34試合を戦い、13勝しか挙げていなかった。そのために大会前は厳しい批判に晒され、マラドーナが後に当時の状況を「周りがすべて敵だらけに見えた」と振り返るほど、風当たりは強かった。
指揮官の指導力と采配に関して国内では懐疑的な意見が大勢を占め、82年大会の惨敗を経てもなお、78年大会で初優勝を成し遂げたセサル・メノッティの再登場を願う声が根強かった。
しかし、そんな中でもビラルドによる、マラドーナ中心のチームづくりは着々と押し進められる。攻めは自由を与えてマラドーナにすべてを託し、守りは実直かつ従順な「しもべ」をそろえる。指揮官の、ある種の割りきりが、メキシコで栄誉に浴すことになったアルゼンチンの大きなポイントだった。
大会期間中、守備は、ほぼすべての試合で、オスカル・ルジェリとルイス・クシューフォの両ストッパーの背後に、ルイス・ブラウンを置き、確実に相手のアタッカーを捕まえる策が基本となった。その前ではマラドーナのお気に入りのひとり、セルヒオ・バチスタがにらみをきかす。3人のセンターバックのサイドのスペースをケアするウイングバックも、ハーフウェーラインから後ろを主戦場とし、敵陣深く攻め込むことは稀だった。
マラドーナがいなければ、ずいぶんと味気ないチームだったとする向きが多いのは、守備重視の印象が強かったからに他ならない。攻撃の全権を一人に託し、ほかの選手たちには守備に気を配らせる。当然、攻守一体ではなく、攻撃と守備の分業制を敷いているように映った。ただし、固い守りでピンチを回避し、いったんボールをマラドーナに預ければ、たちまち鮮やかな攻撃が展開された。
結局マラドーナがいたから、現実にアルゼンチンが凡庸なチームに成り下がることはなかったのである。
チームプレーを貫いて生まれた絶妙なバランス
無闇に突っかけては相手のファウルに苛立ち、ついに退場を宣告された4年前とは打って変わって、この大会のマラドーナは、チームプレーを心がけ、自分を失うことがなかった。大会前に指揮官とかわした「サッカーに集中すること」「相手のファウルに熱くならないこと」という約束を守り、状況に合わせておとりになり、組み立て役になり、シューターになった。そうして生み出したのが、前述の13ゴールだった。
イングランド戦の5人抜きゴールやベルギー戦の2ゴール、それにもちろん『神の手ゴール』など派手なプレーもあるにはあったが、すべてはチームにとってベストな選択をした結果だ。象徴的なのは、韓国戦のホルヘ・バルダーノへのアシストと決勝の西ドイツ戦のホルヘ・ブルチャガへのお膳立てだろう。相手の守備が堅いと見るや、マークをひきつけ、アシスト役を買って出て、チームを勝利に導いた。
「彼がいなくなったら、どうなるのか」
親友であり、盟友であるバルダーノが大会前に抱いていた心配も杞憂に終わる。一見、いびつなスターシステムはしかし、その要たるスターがチームに忠実であり続けたことで、絶妙なバランスを保った。指揮官がマラドーナを特別扱いし、このエースがやり易いようにチームを構成することで、逆にマラドーナをチームにうまく組み込んだのだ。
78年大会で母国に初めてカップをもたらした男、33歳のダニエル・パサレラではなく、25歳のマラドーナをキャプテンに指名したのも、本大会で期待されていた新星クラウディオ・ボルキやペドロ・パスクリを限定的に起用したのも、年下の選手が幅を利かす状況に不満を抱いていたリカルド・ボチーニの出場をわずか1試合に留めたのも、すべては一人の天才のモチベーションを維持するため。犬猿の仲と言われるパサレラが、体調面を理由に最後まで出場しなかったのも、マラドーナと無関係ではない。
大会期間中の記者会見でマラドーナが冗談めかして発した「パサレラがメノッティのお気に入りだったように、僕はビラルドのお気に入りだ」というコメントが、当時の特殊なチーム事情を表している。
「彼に、特別な管理方法が必要だということは、(監督に就任した)最初の段階から分かっていた。私は自分に言い聞かせたのです。『マラドーナはこっち、そして他の選手はあっちだ』と」
それがビラルドの基本的な考え方であり、メキシコの地でマラドーナを、マラドーナたらしめた理由だった。後に神とまで崇められる本物の天才を、指揮官がその気にさせた時点で、勝負はついていたのかもしれない。
86年大会のアルゼンチンは、ワンマンではない、マラドーナのチームだった。ワールドカップの長い歴史の中でも、これほどまでに一人の選手がチームに影響力を持ち、優勝に至る過程で「機能した」例はない。おそらく今後も、こんな優勝チームにはお目にかかれないだろう。
神の手に5人抜き…マラドーナはワールドカップのような大舞台で後世に語り継がれるようなプレーを数々やってのけた。そのこともマラドーナが神と崇められる所以だ
https://soccermagazine.jp/_ct/17176916
というわけで このワールドカップは おらにとっても初めての現地入りだったのだけど、その後のワールドカップの歴史と比べても 異色の大会だったかもしれない。
過去ベストの大会は 70年のペレによる3度目のブラジルの栄冠かもしれないけれど、
20世紀の神であるペレは引退し、不在だったとはいえ、
神の子マラドーナの君臨
全盛期は2年前だったかもしれないプラティニの健在(決勝に行くべきチームだった。ブラジル戦で力を使い果たし、せこい西ドイツに勝てず)
怪我あがりでトップフォームでなかったとはいえ、片鱗を見せたジーコ(出てきて一分で一本のパスでpk獲得。そして外した)
開催国のスターとしてのウーゴサンチェスの存在(所属アトレチコマドリ)
84年にバルセロナからナポリへ移籍しキングとなるマラドーナの最高の相棒としてのブラジルのカレッカの存在【カレッカは後に柏レイソルにやってくる)
などなど まばゆいばかりの個性的スターがそろい踏みしていた大会。皆が絶好の状態、コンディションだったら どうなっていたことやら。
因みにこの大会の得点王はイングランドのリネカー。6点。マラドーナの神の手ゴールのあと、同点ゴールし、そのあとマラドーナの文句言わせん5人抜きゴールで 代替フォークランド紛争に決着。アルゼンチンがリベンジを果たすのであった。リネカーも後で 名古屋グランパスに来たねぇ。
これらを生観戦したおもろいゴリラは まぁ 楽しかったにキマッチョル。
半端なレポートですが、少しは おらのサッカー好きが伝わった?
この同じ興奮を味わった 幸運な方とは チリのワインでもやりながら語りあいたいものだ。
さて、表題のメッシのメの字も触れなかったけど、いかにマラドーナが凄かったかは伝わった?
そして プラティニとジーコの対決がいかに凄い試合だったか(事実上の決勝と語る人もいる)。
マラドーナは魅力だったが、チームとしてのエクセレンシーはブラジルやフランスが上かもしれない。だったかもしれない。西ドイツは美しさではなく そつがないのだ。いつも。時々美しいドイツもあるが、それは移民が増え 多様性が加味されてきく もっと後の時代まで待たなければならない・・・かと。
眠くなってきた
ではまたね
CIAO